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宋の太祖は中国統一を目指し

宋の太祖は中国統一を目指し、各国を理由をつけては滅ぼしていった。南唐の南方に割拠した南漢が971年に宋に滅ぼされると、南唐はますます宋を恐れた。そして、自国が従順であることを示そうとした。例えば、それまでは中書省・門下省といった本来は中央政府が用いる役所の名前を使っていたが、それを左内史府・右内史府と言い換えたりした。また、南唐で爵位が○○王とされていたものはみな○○公とした。これは、王という爵位は皇帝が与えるべきものであり、皇帝でない国主ごときが本来与えられるようなものではないからである。

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以上のように、南唐は国土を保全するために努力し、宋が南唐を攻撃する大義名分を与えさせなかった。しかし、974年に太祖が李煜に来朝するように命令した際に、李煜は病と称して行かなかった。太祖はこれを口実にして、曹彬・潘美に命令して南唐に侵攻した。翌975年に宋の軍勢は金陵を包囲した。太祖から「民衆に乱暴を働いたりしてはいけない。力攻めではなく、威信を以って城を落とすのだ」と言われていたこともあり、力攻めをせず、包囲を続けて南唐が降伏するのを待った。

李煜は軍勢を帰してもらうために、徐鉉を使者として太祖のもとに遣わした。徐鉉は「李煜に罪はありません。陛下が攻めるのには大義名分がありません。煜の小さいものが大きいものに仕えたさまは、まるで子が父に仕えるようでした。罪や過ちはありません。どうして攻撃なさるのですか」と言った。これに対し、太祖は「それではお前のやっていることは父と子を2つの家に分けているではないか。そんなのでよいのか」と答えた。徐鉉はこれに反論することができなかった。徐鉉はもう一度太祖の下を訪れ、説得を試みた。しかし、太祖は怒って、「これ以上言うことはない。また何の罪があろうか。ただ天下は一家である。寝ているときに、他人がいびきをかいて寝ているのを許すか、いや許さない」と答えた。この剣幕を恐れた徐鉉はやむなく帰っていった。

金陵の包囲は10ヶ月にも及んだが、ついに李煜は降伏し、ここに南唐は3代にて滅んだ。なお、李煜は宋の都の開封に移され、違命侯の爵位を賜った。太祖の次の皇帝の太宗の時代には隴西公とされた。978年に死去したが、太宗に毒殺されたとも言われている。

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2009年04月26日 12:31に投稿されたエントリーのページです。

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